駄文を弄する

おすすめの小説を中心に紹介しようと思っていましたが、脳内がとんだカオス状態なので内容もそうなっています。

スポンサーサイト

--/--/--/--/--:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『ブラック・スワン / Black Swan』(ネタバレ感想)

2012/07/03/火/07:00
ナタリー・ポートマン主演のブラック・スワンを一昨日見た。最近はアメコミヒーローもの以外のアメリカ映画を見ることがあまりなく、よく知らんで見て大そう疲れた。いい意味で。

Wikipediaを見て知ったのだがこの映画、日本ではR15指定だそうで。まあ、そうなった理由はすぐに思い当たったが。あのシーンとかあのシーンとかあのシーンとか。

取り敢えず、ナタリー・ポートマンのファンは見ておいて損はないと思う。というか、蝶有名そうなのでファンは既に見ているのか。

ブラック・スワン [DVD]ブラック・スワン [DVD]
(2012/03/16)
ナタリー・ポートマン、ヴァンサン・カッセル 他

商品詳細を見る

さて、迷ったがこの先でネタバレする。たまには思った事を全部書いてみるのも悪かないかなと。いや、まあ実際の所せっかく書いたのにお蔵入りするのもなあと思って。『孤宿の人』と『イニシエーション・ラブ』は書いたけどネタバレしかなかったからお蔵入りにしたし。

検索ページ対策で色を背景と同化させるから読んでみようと思う奇特な方はCtr + Aキーとかで見て下さいな。

あと、クソ長い。しかも読み辛かった。やっぱり読み飛ばす事を薦める。


推理小説などでよく言われる「信頼できない語り手」というのがある。この映画でナタリー・ポートマン演じるバレリーナのニナが正にそれだ。

ニナはプリマの座を射止めてから加速度的に精神が崩壊していく。その為、どの描写が現実か妄想か次第に分からなくなっていくのだが、僕はこの辺が一番面白かった。反射的にこれ妄想、これ現実と勝手に判断しながら見ていた。同時にニナの心理を素人分析しながら見ていたのでえらく疲れた。

全部見終わってから思ったのは、このニナって娘は己の半身を殺す事でしか監督トーマが言う所の官能的な演技(抑圧された自我との融合)が出来なかったのかという事だ。

おそらくは母親の教育方針のせいで、抑圧された自我を抱えて育ってきたであろうニナは映画が始まった当初からすでに精神が不安定だったように思う。背中の傷(自分で引っ掻いた傷)を見て奇妙な顔をしたのは話が始まった直後ぐらいだったはずだし。

それに、その次のシーン、電車でバレエスタジオに向かう場面でニナが自分と同じ顔をした女を見たり(と思ったけど場面転換が速すぎたせいで僕の勘違いかもしれない)、自室に飾られた絵の眼が動いたり(と思ったけどカメラがすぐに違う方向へ行ったので気のせいかもしれない)等々怪しい場面が序盤にあったので。

うん、この記述が既に「信頼できない語り手」によるものな訳だがそれは捨て措こう。大体ね、一人称の記述は全て「信頼できない語り手」だと思うんだ。まあ、三人称もそう言えるが。

で、話を戻すけれども、先の電車の女こそニナのライバル、ミラ・キュニス演じるリリーだったのだが、自分と同じ顔と見間違える女(僕の勘違いでなければ)がこのリリーだった事は後の展開を考えると象徴的に思う。

ニナの心理を語る上で監督のトーマ(ヴァンサン・カッセル)、母親(バーバラ・ハーシー)、前プリマのベス(ウィノナ・ライダー)は外せない要素だと思うが、自分の焦点がぼやけそうなのでそこは全スルーする。

ニナは「自分と同じ顔をした女」=「ドッペルゲンガー」を何度か見るが、僕はこの「ドッペルゲンガー」がニナの「抑圧された自我」を表していると思った。そして、その「ドッペルゲンガー」と実在する「リリー」とがニナの中で次第に融合していく。それはリリーがニナに変化するという幻覚を見るようになる事から明らかだと思える。僕が覚えている範囲では3回リリーはニナに変化している。

ニナは初めて会った時から「抑圧された自我」の具現として無意識にリリーを見ていたのじゃないかと思う。自由奔放で妖艶なリリーはニナと正反対の性質を持っている訳だし。さらには、そのリリーの持っている性質こそがニナに欠けている、自身が演じなければならない「ブラック・スワン」に求められている要素でもある。

「欠けている」と書いたが、トーマが序盤で看破したように、ニナは二つの役を演じ分けられるような性質を元々持っていたように思う。ただ、一方を表に出す事が出来なかっただけで。リリーが関わる前に見ていた「ドッペルゲンガー」がその表出と見た。(ドヤ顔で言うけれども)

で、悪い事にというか当然というか、リリーはニナの代役というポジションでもある。なので、「役を取られる不安」はリリーが「役を奪う者」としてニナの中で機能する。

ここで、「役を奪う者」=リリーとリリー=「抑圧された自我」が結びつき、物語り終盤の「妖艶なニナ(リリー)」=「自分自身」を刺し殺す場面に至るのじゃないかと。あの場面で楽屋にいたのは最初こそリリーの姿をしていたが、途中からニナ自身の姿を模した悪魔に変わり、「役をよこせ」とニナに迫る。それを「この役は私のものだ!」と言ってエゴを爆発させて刺し殺す事によってニナは自身が幻覚で見ていた妖艶な自分に変貌を遂げる。

要は、ここでやっと分裂していた、というと御幣があるが、「抑圧していた自我」と融合する事が出来たんじゃないかと思う。ただし、「役を奪う者」=「もう一人の自分」を殺す事によってだ。因みに、あくまでもこれはニナ視点の話を想像していただけで、僕はこの時、「幻覚を見たニナがリリーを刺し殺した」が劇中で起こった出来事だと信じていた。

その後、舞台上で心身共に(映像的に)ニナがブラック・スワンに変わっていく様は圧巻だった。

そういえば、妄想極まれりの公演前日に背中から妙なトゲが出てくる場面があったが、舞台上の変身シーンであれが羽だったと分かった。背中のあの辺を引っ掻く癖は黒い羽が飛び出そうとしていたという事だろうか。やはり、最初っから表に出たがっていた自我がある事を示していたと。しつこいですか。

さて、ブラック・スワンを演じきった後の楽屋の場面。前述の通り、僕はここを見るまで幻覚を見たニナがリリーを刺し殺したとばかり思っていた。いやだって、そんな手の込んだ二重の罠は純真無垢で清廉潔白な人間が疑うわけないじゃないですか。殺したと思った自分そっくりの黒いのが実はリリーで、それすら本当は幻覚で、刺したのは自分の腹でした、なんて。

ただまあ、この手の手法は好きだけども。何となくだが、あの「リリー刺殺」からこの「ブラック・スワン」後の楽屋までの間に生きたリリーがどっかに映っている気がしてならない。もう一度みる機会があったら確かめよう。

最後、全て演じきったニナは「完璧だった」と呟いて満足の中意識を失っていく。ニナの状況に気付かず騒いでいたトーマがリリーの予言通りの事を言っていて笑った。結局ニナはトーマの事などどうでもよく、最高の演技をする事が第一だったのか。

凄く見応えがあったけどそれに比例して疲れた。今のところ今年見た映画ナンバーワン。

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://kidoum.blog118.fc2.com/tb.php/63-4c285b1f

ナタリー・ポートマン主演のブラック・スワンを一昨日見た。最近はアメコミヒーローもの以外のアメリカ映画を見ることがあまりなく、よく知らんで見て大そう疲れた。いい意味で。Wik...

 | HOME | 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。